天使のキス

 その昔、塔の小部屋には天使がいた。
 ビアンキだけの、小さな銀色の天使が。




「あなたも年頃だから、話しておかなければならないことがあるわ。」

 金曜日の夜、獄寺がアパートの洗面所でぼんやりとうがいをしていると、鏡の中の自分の顔の後ろ
にビアンキの顔が写っていた。
「げえっ」
 獄寺は水を吐くと同時に目をつぶる。
 像は消えても姉が消えることはないのにと、自分に突っ込みをいれながら。
「ごめんなさい。サングラスを忘れていたわ。」
 絶対にわざとだ。




 この一週間、月曜から毎晩、妙な仕事を続けていて、獄寺は精神的にまいっていた。
 拘束時間は短く、報酬は高く、作業は単純。
 学校の片手間にできるバイトを紹介すると言って、姉がもちかけてきた仕事だった。
 内容は、指定された時間に、指定された場所に、指定された服装で行き、予め渡されている写真の
人物の手の甲を一舐めしてくるというもの。
 もしやピンク系の仕事かと思いきや、最初に渡された写真は妙齢の女性で、獄寺はちょこっと期待し
つつ、引き受けてしまった。
 行ってみれば、待ち合わせの女性は獄寺の姿を見るとすぐに片手を差し出し、獄寺が舐めれば感
謝の言葉を口にして去って行った。
 
 それを含めて、これまでに受け取った写真は5枚。
 年齢も性別もばらばらだったが、5人の態度はみな似たりよったりで、難しくない仕事だった。
 ただただその仕事の訳を考え続けで、消耗してしまっていたのだ。




「あなたはまだ童貞で処女よね。」
「っぶっ」
 居間に移って向かいあって座り、獄寺は飲みかけた茶にむせた。
「童貞で処女よね。」
 繰り返して言うビアンキに、獄寺は耳を両手でふさいでテーブルに突っ伏した。


「聞きなさい。ここからが大事なのだから。
あなたの粘膜と誰かの粘膜が接触したり、あなたの体液が誰かの傷口に付着したりすると、誰かは3
日後に死ぬわ。」


「はいい??」
 獄寺は顔を上げた。

「あなたの猛毒が体内に入ると、3日間元気に普通に生活して、3日目の終わりに苦痛なく死ぬの。
死因は心臓麻痺ということになる。
どんな医者も他殺だとは気づかないの。
素敵よ。殺し屋としてこれ以上の能力はないわ。」

「・・・・はあ?」

「今まで、わたしも確証は持てなかったのだけれど。
この女性、昨夜、自宅で亡くなったわ。」
 月曜日の女が、遺体となった写真をテーブルに置いた。
「そしてたった今、この男も息を引き取ったの。」
 続いて、火曜日の男の遺体の写真が並べられた。

「ええっ。あれって、殺しの依頼だったのかよ!」
 妙にわりのいいギャラに合点がいった。

「なら、あの5人はどこの組織の人間だ?」

「いいえ、普通の、善良な、一般市民。」

 それからの姉の言葉はもう、獄寺の耳を素通りしていた。




「・・・・・幼少時から少量ずつ、様々な毒素を摂取した結果ね。・・・・・私と同じで、どんな毒にも耐性を
持った体質にしたかったのだけれど、私も子どもだったから、技術が未熟だったのね。失敗してしまっ
たわ。・・・・・」




 それから2日続けて、遺体の写真だけが届けられた。
 土曜日に水曜日の男の遺体の写真。
 日曜日に木曜日の女の遺体の写真。

 そして、月曜日の夜、金曜日の男の遺体の写真を手に、ビアンカが再びやってきた。
「今日の仕事をうける気はある?」

 獄寺の顔色は悪い。金曜日から考え続け悩み抜いたのだろう。
 自分で集めたらしい5人の資料の類がテーブルに散っている。

「うける。」
 獄寺の前に並べられた5枚の写真の遺体は、みな眠るように安らかな顔をしている。

 獄寺はビアンキが差し出した1枚の写真を見ると、泣きそうな顔になった。

「こんなに小さな子が、末期の病気なんだ。」




 ビアンキは白いコートを羽織った獄寺を見送った。
「あなたの仕事だから、笑いなさい。」
 獄寺は酷い姉だと言って、ほんの少し笑って出掛けて行った。




「ああそうか。ばかばかしい。姉貴だけは殺せねえなんて。」 



 


2009/02/17

 

 

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